鎌倉幕府、二代将軍足利義詮(よしあきら)の死によって、わずか10歳で家督を継いだ足利義満は、相国寺を24歳で建立する。混沌とした時代の中で、義満は春屋妙葩(しゅんのくみょうは)の仏弟子として、天龍寺で座禅修行をおこなっていたという。その後、南北朝を統一し、室町時代の黄金期を築いた義満は、将軍職を嫡男の義持に譲り、39歳で金閣寺の造営する。
義満によって五山第二位に列せられた相国寺はその後、長きにわたり臨済宗五山派寺院を総括する役職を独占。1393(明徳4)年には巨大な七重塔を建てるが度重なる火災や兵火で焼失。応仁の乱では相国寺が、戦いの中心となり相国寺は灰燼と帰した。その後も焼失と再興を繰り返し現在の伽藍は1802(享和2)年、113世の梅荘顕常の再興による。
創建から600年以上たった今、義満が建てた相国寺と金閣寺は奇妙なほど対照的である。世界中から観光客で賑わう豪華絢爛の金閣寺。飾り気がなく静寂な空気が流れる相国寺。その二寺の違いはとても興味深い。
相国寺の見所は、狩野光信によって法堂の天井に描かれた「鳴き龍」とよばれる蟠龍図。境内の北にある承天閣美術館は多く国宝や重要文化財が展示されており見ごたえがある。
宗派 | 臨済宗相国寺派 |
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創建 | 1382(永徳2)年 |
価格 | 一般・大学生:800円 65歳以上・中高生:700円 小学生:400円 |
住所 | 京都市上京区今出川通烏丸東入 |
TEL | 075-231-0301 |
定休日 | 特別拝観時のみ参拝できます |
営業時間 | 10:00~16:00 |
URL | ホームページ |
相国寺の創建は1382(永徳2)年、室町幕府三代将軍足利義満による。1367(貞治6)年、二代将軍足利義詮(よしあきら)の死によってわずか9歳で家を継ぎ、元服後に征夷大将軍となった義満は、幼い頃から天龍寺にて、住持の春屋妙葩によって仏弟子として受衣し、朝から晩まで熱心に座禅修行をおこなっていたという。義満はその頃から天龍寺を凌ぐほどの一寺の建立を祈願していた。
相国寺はもとは伝教大師最澄が開創の出雲寺と、法然上人の神宮寺(後の百万遍知恩寺)と聖一国師(円爾)ゆかりの安聖寺との旧跡に跨った、室町第「花の御所」に隣り合った場所に建立された。義満は開山始祖を師である春屋妙葩に懇願するが、春屋はこれを固く辞退。春屋は二世の住持となり、開山は夢窓疎石とし、寺号は「萬年山相國承天禅寺」に決定した。
続いて義満は南禅寺を五山の上位と格上げし、すでに確定した京都五山の第二位に相国寺を加えた。また五山制度の確立とともに、春屋を初代僧録に任命する。僧録は臨済宗五山派寺院の支配総括し、中国との外交業務を行う役割を果した。その後、230年あまりにわたり相国寺が僧録司を独占することになる。
1393(明徳4)年には白河天皇が岡崎に建てた八角九重塔より27メートル高い、109メートルという七重塔の建設が開始されるが、度々の火災によって堂塔伽藍は焼失。1470(文明2)年に七重塔は再建されるも、落雷にあって再度焼失している。応仁の乱では相国寺の場所が、戦いの中心となり相国寺は大塔を残して灰燼と帰した。
相国寺の本格的な復興は1584(天正12)年に入寺した西笑承兌による。西笑は豊臣秀吉に重用され、主に外交文書の作成などをおこなった。西笑の活躍によって秀吉、秀頼、家康から支援をうけ、次々と伽藍を復興させた。しかしながら1615(元和元)年には相国寺創建から伝承されてきた僧録職が廃止。南禅寺の金地院崇伝に僧録がとって代わられる。その後も幾度も火災にあった相国寺は1802(享和2)年、113世の梅荘顕常により開山塔、方丈、庫裏が再興され、現在に至っている。
1275 | 夢窓疎石、生まれる |
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1279 | 無学祖元、来日 |
1311 | 春屋妙葩、生まれる |
1345 | 春屋、夢窓より印可を受ける |
1351 | 夢窓疎石、示寂 |
1367 | 足利義満、天龍寺にて春屋より受衣 |
1379 | 春屋、わが国最初の天下僧録司に任命される |
1382 | 足利義満、相国寺の建立を発願。仏殿と法堂の建築をはじめる |
1383 | 寺号を「萬年山相國承天禅寺」とし、開山を夢窓疎石、春屋妙葩を第二世住持とする |
1385 | 仏殿の完成。以後、三門、僧堂、法堂が続いて完成 |
1386 | 足利義満、相国寺を京都五山第二位とする |
1388 | 春屋妙葩、示寂 |
1392 | 伽藍が完成。落慶供養が行われる |
1393 | 七重大塔の建設がはじまる |
1394 | 直歳寮から出火し、伽藍焼失 |
1395 | 足利義満、絶海中津のすすめにより再建をはじめる |
1399 | 高さ100M余りの七重大塔が完成 |
1401 | 幕府、相国寺を京都五山第一位とする |
1403 | 七重大塔、落雷により焼失 |
1410 | 京都五山第二位になる |
1425 | 塔頭より出火し全焼 |
1467 | 応仁の乱により伽藍焼失 |
1551 | 天文の戦乱により、寺域全焼 |
1584 | 西笑承兌、弟九十二世として入寺、復興に尽力 |
1615 | 家康、相国寺の鹿苑僧録の役職を廃止 |
1620 | 京都市内で大火がおこり大半を焼失 |
1765 | 伊藤若沖、「釈迦三尊図」「動植綵絵」二十四幅を寄進 |
1788 | 天明の大火により法堂と数院を残してほぼ焼失 |
1843 | 鐘楼の落成 |
1984 | 承天閣美術館が開館 |
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