大徳寺山内の二十余りの塔頭はことごとく一級の美術館といっていい。街道を行く(大徳寺散歩)で司馬遼太郎は大徳寺をそう紹介するが、そう思えるようにはなるには、すこしばかり知識や下調べが必要かもしれない。
鎌倉時代後期の1315年(正和4)年に建立された大徳寺は金閣寺や清水寺のような華やかさや賑わいはない。普段から一般に公開されている4つの塔頭以外は非公開の大徳寺にそんな観光客をもてなすような雰囲気はない。簡素で無駄がない石畳の静かな境内。塔頭の門をくぐると、こじんまりとした空間の中に手入れの行き届いた美しい庭園と凝縮された歴史が詰まっている。
峻烈な禅風で知られ、鴨川の橋の下で乞食にまじり厳しい修行をおこなっていたという開創の宗峰妙超(しょうほうみょうちょう)。大徳寺を復興した頓知(とんち)の一休さんで知られる一休宗純(いっきゅうそうじゅん)。大徳寺で信長の葬儀を行った豊臣秀吉。大徳寺と結びつきが深かった千利休は大徳寺の三門に安置した木像が原因で秀吉から切腹を命じらる。ほかにも大徳寺には興味深い逸話が多い。
また、滝から落ちた清流が大河へ流れいく様を表している大仙院の枯山水庭園。キリシタン大名として有名な大友宗麟が創建した十字架を七個の石であらわした瑞峯院の「閑眠庭」。小堀遠州が建てた孤篷庵の茶室、忘筌席(ぼうせんせき)など、大徳寺は訪れるたびに深みを増す、そんな古刹である。
宗派 | 臨済宗大徳寺派 |
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創建 | 1315(正和4)年 |
住所 | 京都市北区紫野大徳寺町53 |
TEL | 075-491-0019 |
大徳寺は1315(正和4)年、播磨の守護赤松則村の帰依をうけた宗峰妙超(しょうほうみょうちょう)によって開創された。もともと大徳寺のあった地は淳和天皇によって建てられた離宮、雲林亭があり、後に常康親王が父帝仁明天皇の崩御により出家され天台宗の雲林寺とした。
宗峰妙超は1282(弘安5)年に播磨で生まれ、十一歳で出家して天台宗を学ぶが、禅に惹かれ鎌倉の万寿寺の高峰顕日に参じ、また宋から帰った名僧として名高かった南浦紹明に師事する。宗峰妙超は師大応国師がもつ峻烈な禅風をうけつぎ厳しい修行を旨とした。妙超は赤松則村の寄進で一宇を建てたのちも、鴨川五条の橋の下で乞食の郡にまじり、市井での修養をつんでしたという。禅に傾倒していた花園天皇は市内にあふれる乞食のなかにいる妙超を探し出すために、好物の真桑瓜を河原で配給すうことでようやく妙超を見けだしたという有名な逸話がある。
皇族のあつい信仰をえた大徳寺は1326(暦元)年に法堂が完成し伽藍が整い、後醍醐天皇により南禅寺と並び京都五山の第一位に列せられた。しかし足利尊氏の時代になると夢窓疎石に帰依していた尊氏により五山十刹のうちの第九位に落ち、次第に衰退していった。その後は応仁の乱で焼失し大徳寺は荒廃する。
大徳寺の復興は一休宗純(いっきゅうそうじゅん)に深く帰依していた堺の豪商による。一休は後小松天皇の子といわれ母親が藤原氏の出自であることから皇居を出て、在野で一休を産む。その後、京都の安国寺の待童になった一休は各地を転々とするが、その個性から多くの人が帰依し大徳寺の住持になるが、大徳寺に住むことはなかった。
1582(天正10)年には豊臣秀吉によって本能寺の変で死んだ織田信長の葬儀が大徳寺で行われた。これにより各大名は大徳寺の山内にこぞって諸院を建立することになり、寺勢はいちだんと高まった。秀吉に信長の葬儀を大徳寺でおこなうことをすすめたのは以前から大徳寺に参弾していた千利休であった。千利休は1591(天正19)年、大徳寺の三門に自身の木造を楼上に安置したことにより秀吉の怒りをかい切腹を命じられた。
1305 | 宗峰妙超、南浦紹明に参ずる |
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1307 | 宗峰、南浦に「投機の渇」を呈呈し、印可を受ける |
1315 | 宗峰、紫野に第を結び、大徳と称す |
1325 | 宗峰、宗論にのぞみ、これを論破(正中宗論) |
1325 | 玄慧法印、宗峰の下に入り大徳寺方丈を建立 |
1325 | 花園上皇、大徳寺を勅願道場とする |
1326 | 法堂落成、宗峰、龍宝山大徳寺と命名し祝国開堂を行う |
1333 | 宗峰、正燈国師の諡号を賜う |
1334 | 後醍醐天皇、大徳寺を五山の上に列せられ、寺域を追加寄進 |
1335 | 後醍醐天皇、大徳寺に行幸 |
1335 | 花園上皇と正燈国師の問答語 |
1336 | 花園上皇、宗峰より印可を受ける |
1337 | 宗峰、示寂 |
1386 | 幕府、五山の制を改め、大徳寺を京都十刹の第九位とする |
1415 | 一休、華叟宗曇に参じ、名を宗純と改める |
1467 | 応仁の乱の兵火により大徳寺焼失 |
1474 | 一休、大徳寺住持に推され入寺法語を作るも住山せず |
1478 | 尾和宗臨、方丈を再建 |
1481 | 一休、示寂 |
1526 | 柴屋軒宗長の資助により、三門造立 |
1582 | 豊臣秀吉、大徳寺にて織田信長の葬儀をおこなう |
1582 | 秀吉、総見院を建立 |
1585 | 秀吉、大徳寺ににて大茶湯を催す |
1588 | 秀吉、母の寿塔として山内に天瑞寺創建 |
1589 | 秀吉の怒りに触れ、利休自刃 |
1615 | 幕府、諸宗諸本山諸法度を定め、大徳・妙心両寺の出世を規制 |
1627 | 幕府、大徳・妙心両寺の紫衣勅許を無効とする |
1629 | 玉室宗珀・沢庵宗彭・東源慧等ら幕府に抗弁書を提出 |
1629 | 玉室宗珀・沢庵宗彭、奥州に流される |
1636 | 那波宗旦、経蔵。後藤益勝が方丈。稲葉正則が法堂を建立 |
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