鬱蒼とした竹林の先に見える法然院の茅葺の門は、京都でも指折りの景観である。哲学の道を東に入り上り坂を歩くと浄土宗開祖である法然上人ゆかりの法然院がある。法然院の地はもともと法然上人とその弟子たちが、念仏三昧の別行を修する道場の草庵が営まれていた。
1206(建永元)年、後鳥羽上皇の院の女房である松虫と鈴虫が、法然上人の弟子安楽と住蓮を慕い、上皇の留守中に出家をしてしまい、上皇の逆鱗にふれた。翌年法然は讃岐に流罪。安楽は鴨川の六条河原で、住蓮は近江の馬淵でそれぞれ首を切られた。そして草庵はその後、荒廃していまう。その後、長い時間をかけてようやく復興するのは江戸時代に入ってからである。そして昭和に入り、単立寺院として独立。現在に至っている。
法然院の墓地には多くの著名人たちが眠る。とくによく知られるのが谷崎俊太郎の墓で、生前から自身の墓を法然院と定めていた谷崎は、この墓地に大好きだった桜を植えたといわれる。他にも経済学の河上肇、哲学者の九鬼周蔵、日本画家の福田平八郎など様々なジャンルにわかる著名人の墓が集ることからも、法然院が人気がよくわかる。
現在でも法然院では「寺は開かれた共同体でなければ」という思いから法事以外に個展、音楽会、シンポジウムなど年間で100以上の集いが開かれているという。開かれた寺である法然院は、今でも法然上人を近くに感じられる数少ない貴重な場所である。
宗派 | 浄土宗 |
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創建 | 1680(延宝8)年 |
価格 | 入山無料 伽藍内特別公開の期間中、伽藍内の拝観は有料。 |
住所 | 京都市左京区鹿ヶ谷御所ノ段町30番地 |
TEL | 075-771-2420 |
営業時間 | 6:00~16:00 |
URL | ホームページ |
法然院の地はもともと浄土宗の開祖である法然とその弟子たちが、念仏三昧の別行を修する道場の庵が営まれていた場所だと伝わる。比叡山を下り、度重なる旧仏教教団からの弾圧にも耐えた法然上人は専修念仏の教えを貴族や武士、一般庶民に説いた。法然には安楽房遵西(あんらくぼうじゅんさい)と住蓮(じゅうれん)という弟子がおり、その二人の美しく抑揚のある礼拝は、多くの都の人を惹きつけていた。1206(建永元)年、安楽と住蓮を慕った後鳥羽上皇の院の女房である松虫と鈴虫が上皇の留守中に出家をしてしまい、事情を知った上皇はこのことに激怒した。翌年2月、法然は讃岐に流罪。安楽は鴨川の六条河原で、住蓮は近江の馬淵でそれぞれ首を切られた。そして草庵はその後、荒廃していまう。
草庵が復興するのは、その後長い時間が経った江戸時代に入ってからである。一説によると1628(寛永5)年。鹿ケ谷の総堂に知恩院29世尊照の弟子である浄教寺の住持が隠居したとされる。その後浄教寺の阿弥陀仏を移して安置し法然院と称したとされる。また1680(延宝8)年には知恩院38世萬無(ばんぶ)が弟子忍澂(にんちょう)の鹿ケ谷の念仏道場の発願を受け、徳川4代将軍家綱に願い出て、善気山の麓に新たに境内地2千坪を拝領し本堂をはじめとする諸堂が完成された。
1687(貞享4)年には伏見城にあった八百宮の御殿の一つが法然院の方丈として移築、1689(元禄2)年には庭園に弁才尊天を安置する祠を建て鎮守社とした。法然院は知恩院の浄土宗鎮西派に属して歩んできたが、1953(昭和28)年に単立寺院として独立。そして現在に至っている。
1175 | 法然、比叡山を下り、専修念仏の教えを説く。浄土宗の開祖 |
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1204 | 比叡山衆徒が専修念仏の停止を迫って隆起 |
1204 | 鹿ケ谷に法然や弟子たちが念仏三昧を修する道場が営まれる |
1206 | 法然の弟子安楽と住蓮に魅せられた松虫と鈴虫が出家。後鳥羽上皇激怒 |
1207 | 法然、讃岐国に流罪。安楽と住蓮は六条河原と近江の馬淵で死罪 |
1212 | 法然、東山大谷で入寂 |
1628 | 浄教寺の阿弥陀仏を移して安置し法然院と称す |
1680 | 萬無、鹿ケ谷の念仏道場建立の発願、善気山麓に境内地を拝領し工事着工 |
1681 | 萬無、七昼夜別時念仏を修し遷化 |
1687 | 伏見城の八百宮の御殿を法然院の方丈として移築 |
1688 | 本堂を再建、仏殿と拝殿が別設される |
1689 | 庭園に弁才尊天を安置する祠を建て鎮守社とする |
1694 | 大浴室(現講堂)が建立される |
1703 | 幕命により善気山・多頂山が寄進され寺領30石を拝領 |
1706 | 忍澂らにより一切経の校訂事業が行われる |
1737 | 経蔵が完成 |
1921 | 多宝塔が建立される |
1953 | 単立寺院として独立 |
1971 | 堂本印象画の襖画四十八面が方丈に設置される |
1977 | 大浴室の内部を改装し、講堂とする |
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