武市瑞山は、土佐藩郷士で江戸に学び尊王攘夷を志し、土佐勤王党を結成した。藩内の主流であった公武合体派を退け藩論を尊王攘夷に導いた。文久2(1862)年山内容堂に従って上洛し、この地に住んで応接役として各藩士と交わった。翌年京都留守居役となるが,8月18 日の政変以後,尊王攘夷派は弾圧され、9月に土佐で投獄され、慶応元(1865)年切腹を命じられた。この石標は武市瑞山京都滞在時の宅跡を示すものである。
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