文久3(1863)年8月18日の政変後、京都では公武合体派が勢力を伸ばし尊王攘夷派が圧迫されたため、長州・土佐・肥後などの志士が勢力回復をめざし、中川宮や京都守護職松平容保の暗殺計画を企てた。元治元(1864)年6月5日,三条池田屋において会合中の志士30余名が新選組に襲撃され多数の死傷者をだした。この石標は池田屋の跡を示すものである。
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